「戦艦大和」

3月2日、大阪に戦艦大和の沈没時乗組員、北川さんの講演会に行ってきました。戦艦大和は子供の頃から好きでした。小学生の時に見た戦艦大和の映画を見て宿題の絵を描き特選をもらったことがありました。今の時代で宿題に戦争の絵を描いたら大変なことになるかもしれません。戦争のことは抜きにしてもこの船は芸術品だと思います。日本人が作ったことを誇りに思います。

大阪の友達から大和の講演会に行くと連絡があったのが1月です。すぐに私もお願いしますと連絡して整理券を手配してもらいました。待ちに待ったその日がやって来ました。会場は大阪のホテルです。けっこう若い人もいます。中には女性もいました。

1時間前にホテルの講演会場に入り、隣の席のお年寄りが大和の写真を見るかと話しかけてこられました。色々聞いているうちにこの人も乗組員だったことが解りびっくりです。お歳は93歳、とてもそんな年には見えないくらいしっかりしてらっしゃいます。乗船は昭和16年12月10日、ということは開戦の2日後です。大和の就航が12月中頃です。最初の乗船から沖縄特攻の前日(4月5日)までですからほぼ最後まで乗船していたことになります。海上特攻で4月6日に出港、7日に沈没です。鹿児島県坊岬ノ沖で敵戦闘機100機余りの攻撃を受け2時間足らずで沈没しました。魚雷10発、直撃弾数発を受け横転後に火薬庫が大爆発して沈没しました。大和だけで3000人あまりが戦死、300人足らずが救助されましたが艦隊では4000人近くが戦死しました。

後で大和ミュージアムのスタッフに聞いた話ですが特攻前に七十数人が降ろされて入れ替えになったそうです。あの人はその時のお一人です。

私の隣のお爺さんです。とてもそんな年には見えません。やはり鍛錬が違うのかしっかりしてらっしゃいます。

当時の階級は一等兵曹、持場は三番砲塔左砲2番砲手といいます。三番砲とは後部の主砲です。あの世界最大の46センチ砲です。撃った時のときの衝撃なども聞きました。主砲内部の構造も教えてくれました。戦艦としての戦闘は行わず批判を受けたミッドウェー海戦、レイテ沖海戦と転戦してレイテでは僚艦の武蔵を失うのを経験したそうです。そして北川さんの講演が始まり10分ぐらいしてからこのご老人が「嘘だ、違う!」とつぶやきました。そして私に「くだらんから私は帰りますから・・・」と言い残して帰ってしまいました。何のことかよく解りませんでしたが、どうも北川さんの講演内容に気にくわぬことがあったのでしょうか・・・北川さんの大和での船歴が2カ月足らずに比べ、このご老人は3年4カ月もありますからそれなりのプライドがあったのでしょう。どちらのお話も私たちにとっては貴重なお話でした。もうお二人には二度とお会いできないかもしれません。時代の生き証人です。

興奮冷めやらぬ数日後に仕事で江田島に行くことになり、前日夕方までに呉に入りました。ここに来たらやはり大和でしょう、と大和ミュージアムに閉館1時間前に若者4人を連れて飛び込みました。入館すると直ぐにボランティアスタッフの川西さんがやって来て説明をお願いしました。

言った通り11分ジャストで的確な説明をしてくれました。この大和は現代の技術に生かされているものがたくさんあります。今ではどこの国でも採用している船首のバルバス・バウという球状艦首は大和が最初です。この構造が大変燃料節約に役立っています。

この模型は1/10スケールですがれっきとした造船所が作りました。全長26mもあります。甲板に材木が張ってありますが何と本物の大和と同じ大工さんが施工したそうです。まだ生きてらっしゃいます。お歳は96歳で現役だと言ってました。

この後部甲板の飛行機が乗っているカタパルトと言う装置は飛行機を短距離で押し出す装置ですがこの技術が新幹線の軌道技術に生かされています。

そして写真中央にある主砲が例の大阪で隣にいたお爺さんがいた3番砲塔です。この砲塔だけで3000トン近くあります。3000トンと言えばちょっとした大きな貨物船くらいの重さです。船体の側板の厚みが41センチあります。大和の僚艦の武蔵はレイテ沖で魚雷を左右から20発以上、直撃弾も数発受けてゆっくり沈没しました。ふつうの船なら魚雷が1発で轟沈です。すごい船だったんですね。

この方がボランティアスタッフの川西さんです。熱く大和を語ってくれました。主砲弾の発射の「ドーン!」という声には全員がびっくりしました。42km先まで飛んだでしょう。最後に川西さんが言ってましたが今や大和の乗組員は二十数人しか残ってないそうです。あのお爺さんはその一人なのです。熱い解説ありがとうございました。

残り少ない時間で走るように見て回りました。後は解説がいないため私が代わってやりました。私もここのボランティアスタッフができるくらい知識は持ってます。

これが大和の46センチ主砲弾です。手前が徹甲弾、隣の赤い玉が三式弾といって大砲の散弾銃のようなものです。主に飛行機を狙います。大阪のお爺さんがこれで一度に数機の飛行機を落としたと言ってました。その向こうが同じ徹甲弾でも海中に落ちてから浮き上がるように進む砲弾です。

それより向こうは大和以外の砲弾です。現在の自衛隊が使っているのがいちばん向こうの小さなもの程度です。

これが零戦の最終型62型です。この飛行機は最初の頃に比べかなりの重装備で250kg爆弾が標準で装備できます。日の丸もまわりの白字が無くなり特攻専用の模様を呈しています。この頃はもうベテランパイロットはほとんどいなくなってます。

これが零戦の栄21型発動機(昔はエンジンと呼びませんでした。)星型複列14気筒です。中島飛行機の傑作発動機で3万台以上製作しました。

その他に写真はありませんが93式酸素魚雷があります。当時世界で日本だけが開発に成功したものです。他国の魚雷は航跡が見えますが酸素魚雷は航跡が見えずしかも射程が長いのが特徴でした。非常に恐れられていました。(ちなみに一式とか零式とか九三式の言い方はすべて皇紀から来ています。当時日本は西暦で呼ばず皇紀で呼んでいました。神武天皇が即位してからの年代です。昭和15年が皇紀2600年でこの年に出来たものが零式です。だから零戦と言います。)武器と言うことを抜きにして、このような技術力は当時からすごいものがありました。ただもっと人命を大切にしてほしかったです。アメリカとの決定的な違いは人命軽視です。当時アメリカはたった一人のためにも救助艇を出します。

翌日の江田島の仕事を昼までに終えて帰りに海上自衛隊幹部候補生学校を見学に行きました。俗に言う旧海軍兵学校です。ここから海軍のトップエリートが生まれますちょっと寄って行こうと受付に行きましたがダメでした。入場料は無料ですが前もって予約を入れておかねばならないそうです。それも入ったら案内係が付き90分のコースとなっているのです。途中からは出られません。

残念ですがここで写真を撮って帰りました。この中には旧海軍の戦死者の慰霊のが場でもあります。戦艦大和と一緒に行動して大和乗組員をたくさん救助した強運の駆逐艦「雪風」の錨も展示してあります。ここには東郷平八郎、山本五十六、ネルソン提督の遺髪が収められている部屋があります。

こういう服装では入れません。注意してください。

呉に出て岡山に帰りましたが途中、海上自衛隊呉基地の埠頭が見える公園で自衛艦を見ました。

先日漁船と衝突事故を起こした「おおすみ」型輸送艦がありました。ここにはおおすみ、しもきた、くにさきの同型が3隻があります。

NHKなどはいかにも自衛艦が悪いように言いますが私の推測では釣り舟の方が悪いと思います。

埠頭におやしお型潜水艦がありました。最新鋭のそうりゅう型潜水艦ではありませんでした。そうりゅう型はスターリングングエンジンという革新の機関を搭載する潜水艦でシュノーケルで空気を取り込まなくても長期間潜水できるシステムを搭載しています。やはり日本の技術はすばらしいです。

今度は一人でゆっくり来たいと思います。行ってみたい史跡が呉にはいっぱいあります。

 

 

 

 

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