「ちょっと聞いて下さい。」

今年は長い休みでしたが正月明けの6日に会社に出勤して翌日から東京出張、週末に帰って翌週にはまた長野、甲府に出張と何かと忙しい1月です。

東京ではなじみのお客さんと靖国神社参拝に行ってきました。毎年行っています。何かと隣国にケチをつけられる神社ですが、行って見ればどんなところかよく解ります。彼らのケチは政治的な思惑があってのことです。日本であれば何を言ってもいいという風潮が民度の低さを表し気の毒に思います。神社の生い立ちなど知らない人は隣国の言うとおり信じている人がいることも確かです。今映画「永遠の0」がヒット中ですがこの機会に靖国について勉強するのもいい機会ではないかと思います。

この神社のことで一つ紹介したいと思っていたことがあります。ここに神雷桜と書かれた桜の木があります。

この桜は海軍721航空隊、通称神雷部隊の生き残った戦友会が平和を願って植えた桜です。この航空隊は特攻兵器「桜花」を運用する部隊です。桜花は一式陸上攻撃機の胴体に懸架され、敵艦近くまで運んで切り離しロケット爆弾を操縦して体当たりする特攻兵器です。当たれば大型の艦船でも轟沈です。しかしこの桜花は重量が弾頭部だけで1200kgもあるため母機は飛ぶのがやっと、攻撃されたら回避行動などほとんどできません。

これが桜花ロケットです。その無謀な作戦を任されたのが野中五郎少佐という大変部下思いの上官で、部下からも慕われていました。野中一家とも言われていました。野中少佐はそもそも特攻には大反対でした。作戦を知った大佐は「日本一上手な自分が行っても必ず全滅する。」と予言、たとえ国賊と罵られてもこの作戦を中止させると言い上層部に掛けあいますが認められませんでした。そして作戦が決行される時に自らも指揮官機に乗り込み出撃します。終戦の年の昭和20年3月21日です。九州沖のの敵機動部隊に向けて鹿屋基地から18機の桜花陸攻隊と55機の護衛零戦(内25機は不調で引き返す)で出撃しましたが待ち構えている敵戦闘機の餌食になりわずか10分余りの空戦で桜花陸攻隊は全滅しました。もちろん戦果はゼロです。1機の一式陸攻機に9名の乗員と桜花操縦士が搭乗しています。この作戦で160名の有能な搭乗員が一度に戦死しました。野中少佐機は桜花爆装していなかったにもかかわらず戦果確認の無線をわざと切って部下とともに敵艦に向かいました。無線を切ったのは上層部への抵抗だったとも言われています。少佐は桜花作戦を評して「この槍使い難し」と言ったそうです。出撃前には「湊川ですな。」とも言ったそうです。(湊川の戦いのことで負けると解っている戦のことです。)今の世の中こんな部下思いの上官(上司)が居るのでしょうか。野中少佐34歳(戦死によって大佐に昇進)は私の尊敬する人物の一人です。亡くなる前に愛児に宛てた手紙が印象的です。

尚、この桜花作戦はその後も10回にわたり決行され420余命の尊い犠牲が出ました。お兄さんは2.26事件の中心人物だったため、事件後大変苦労したそうです。戦後アメリカ軍の公表した実写フィルムの中に野中大佐の陸攻隊を攻撃した戦闘機隊のガンカメラがとらえた映像があります。ほとんど回避行動をとれないまま炎をあげる機、翼が吹き飛ぶ機など・・・YouTubuで見ることができます。(桜花を搭載した一式陸上攻撃機)と検索すると当時の神雷部隊が攻撃を受けるカラー映像を見ることができます。墜落する指揮官機も写っています。無残です。

昨年暮れに映画「永遠の0」を見ました。たいへんよかったので2週連続で見ました。泣けます。決して戦争美化などと言う映画ではありません。3年前に本を読んで感動しましたが本以上に素晴しい映画です。私が読んだ色々な本には映画のような人物はたくさんいました。是非皆さんもかつての大戦中の若者たちのドラマをもっと知ってほしいと思います。靖国神社の遊就館には野中少佐の遺品が展示してあります。先の大戦で亡くなった人たちが礎となって今の平和な日本があるのだと実感させられます。

遊就館玄関に展示してある零戦52型です。「永遠の0」で最後にエンジン不調を見抜いた宮部久蔵が21型に交換した時の52型です。この飛行機は世界でただ1機だけ当時のままで空を飛べるものが現存しています。アメリカの博物館が持っていて昨年久しぶりに里帰りしました。所沢の航空記念館に展示してありました。十数年前にも里帰りして日本の空を飛びました。たまたま今回のお客さんではありませんが他のお客さんで零戦の大ファンの方が居ましてその方が自分で撮影したビデオをDVDにコピーして送ってくれました。「永遠の0」ではこの零戦のエンジン音を録音して使っていますから本物のエンジン音です。零戦と言えば三菱飛行機を連想される方がほとんどではないかと思いますが、エンジンは中島飛行機製です。中島飛行機は戦後財閥解体で無くなりましたが富士重工がその流れをくんでます。零戦の設計が映画「風立ちぬ」で有名になった堀越二郎です。総生産量が10000機以上と世界でも傑作機といわれています。以外なのが三菱より中島飛行機製の方が生産機数が多いのです。当時は国家総動員令が出ていて中島飛行機でもライセンス生産してました。でも末期には熟練工が徴兵に採られ学徒動員の生徒が作った不良品が多く、受け取りに来た零戦パイロットからは合格が出ないものが多かったのも事実です。そして零戦と言えば「大空のサムライ」で有名な撃墜王、坂井三郎さんです。坂井三郎さんも私の尊敬する人の一人です。

日本人には軍人アレルギーの人が多いようです。坂井三郎の「大空のサムライ」は世界各国で出版されてベストセラーになっている本ですが日本では知らない人が多いです。別に戦争の体験記のような本ではありません。心が挫けそうな時に読めば誰でも元気がでるようないい本です。機会があれば読んでみて下さい。彼は意外なことに当時の敵国、アメリカで人気があります。日本でも亡くなる前には田原総一郎の「朝まで生テレビ」などに出演して、あの戦争についてしっかりした自分の考えを述べられていました。彼の本はすべて読みましたがどれもすばらしい本です。

昨日小野田寛朗さんが亡くなられました。小野田さんも30年間フィリピンのジャングルで終戦を知らず同僚と忠実に当時の命令を守って生きていました。残念ながら同僚は最後にフィリピン軍との交戦で亡くなりました。その小野田さんが帰国した後、全国からの義援金を靖国に全額寄付したところ非難が殺到しマスコミからは軍国主義の亡霊などと言われ、あきれた小野田さんは変貌した日本に見切りをつけブラジルに移住して牧場経営を始めました。その後、川崎金属バット事件で少年犯罪の多さに心を痛め、何か日本の役に立てればと日本に「小野田自然塾」を設立しました。小野田自然塾は自分のジャングルで培った半生を子供たちと野外活動を通じて教え、健全な子供を育成することを目標としました。何度かテレビでお話を聞きましたが51歳で帰国してブラジルに移住後も日本を見る目は鋭く、いつも日本のことを案じておられました。これでまた日本を叱ってくれる人が居なくなった。ご冥福をお祈りします。


先日長野、甲府に行った帰りの天気は晴天で富士山、南アルプス、北アルプス、八ヶ岳、中央アルプス、すべての山がきれいに見えました。車で走りながら撮った携帯写真ですから八ヶ岳しかうまく撮れませんでした。この山は中央高速を走りながら見る方向によっては全然違う山に見えます。

長坂辺りから見た八ヶ岳です。正面右側のピラミッドが主峰赤岳です。よく登った好きな山です。

諏訪湖SAから見た八ヶ岳連峰です。中央のピークが赤岳です。長坂から見た写真はこの山を右側から一直線に見た写真になります。

一泊二日、甲府から岡山まで往復1300kmありました。長野は何度来てもいいところです。

 

 

 

 

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コメント: 1
  • #1

    kyonkyon (月曜日, 20 1月 2014 13:56)

    戦争の体験がなくて、その時の日本人の気持ちが実感として湧いてきませんが・・・色々なところで目にしたり耳にして戦争ほどむごいことはこの世にないと思います。命の尊さを教えなくてはならないのに、逆のことを強要するわけですから。小野田さんは、すごい人ですね。亡くなってから、いろいろな解説を見て、さらにそう思いました。
    先日亡くなった主人の母は、大正9年生まれで、最初の夫は、久保家の長男でしたが母と一人娘を残し、戦死しました。その後、久保家の四男の主人の父と再婚し家を守って93歳で亡くなりました。母の人生は、戦争で大きく変わったと思います。今も母の遺影を見るたび「おばあさんの一生は幸せだったの?」と聞きたくなります。もちろん答えてはくれません。でも、母が再婚しなければ、私の主人も生まれていないわけで・・・家族に囲まれて93まで生きられて幸せだったと言ってくれるだろうと勝手に自己満足しています。
    私事で失礼しました。


    八ヶ岳 雪をかぶるといっそう美しいですね。写真でこれだけきれいなんですから実物を見たらすばらしいと思います。長距離のお仕事ですね。お体を大切にして下さい。また、山の写真お待ちしています。

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